記憶と破壊と多摩の風景

大学生んときの後半、多摩のほうに住んでいました。

 夏が近づくとミミズがアスファルトの上で暑さにもだえているのを思い浮かべます。山を切り刻んで作った土地です、土の中が暑いので外へ出てきたら、外のほうがもっと暑かったのでしょう。見たこともない太い太いミミズがいたるところに…

 すんでいたの2万5千円の格安のアパートでした。風呂あり、広い台所あり!

 ○○学会のおばあちゃんが大家さんで、よく新聞を読めと、その(あの)S新聞を渡されました。私はまだ若かったので、その学会の戦略であると考え、トクトクとその新聞を読まない理由を述べました。

 もし、今その機会が再び訪れるのなら、なんと言って断るのだろうか?どうしてあのときそんやりかたはおばあちゃんを傷つけるとわからなかったのだろう。

 そのおばあちゃんが作ったオデンやおせち料理(正月のおっそわけでいつももらってました)は後からくるジャブのように今の私を「おいしいもの」という概念にいざないます。
 

 多摩は夏は暑く、冬は寒い。当たり前ですが、ここはそれを具現化したようなトコロと思いました。中腹を全部ヒト向きにした野はここに住むのはすごく贅沢な景色をつくりだしていました。

多分、ソコは今ではもっと開発され、東京の一部となっているのでしょう。

 ヒトってこのようにして自然をはかいし、自然状況(Not自然環境)に慣れ、そこでヒトと付き合い、思い出が生まれ、そこをふるさととして懐かしむのだなあと数年後に感じました。


 そして、その数倍の加速をつけて、ここタイではヒトの心の中にその風景を残存していきます。破壊をつづけながら…