パラダイムはパラダイスか?

オーディオリンガルの次にコミュニカティブ系(~系)が来ました。

で、実際、オーディオリンガルはダメであるというレッテルが貼られたわけですが、本当にダメなんでしょうか?

自分は現実にオーディオリンガルをやって失敗続きだったと言える人が日本語教育に何人いるでしょうか?

みんな、この狭い業界(?)で知られている人が外国人のだれだれがそういっているっていう本を出し、これまた下々の狭い関係者が読み、そうなのかとヒヨコよろしく「刷り込み」されたというのはあながちうそとはいえまい(この煮え切らない表現こそそう)。

でもって、細川(2007)で、またもや新しいパラダイムを押してきています。OPI等々を批判しつつ、「日本語教育の閉塞は、人間活動を動態として見る視点を失った言語学の支配と日本語教師によるそれに対する無自覚な追従に起因する:11」そうです。で、

「社会において人間関係を構築するための自己表現」もまだまだ手ぬるい手段だそうです。で、

早い話が、人間変革に導くような活動が目的となるそうです。壮大ですね。で、本も出してますよ『日本語教師のための「活動型」授業の手引き』(2008)

(2007)で大きいこといっている割にはムニャムニャ。

 質問します。で、何で人間変革するためにこんなありがちな「活動」云々をしなければならないのでしょうか?また、わざわざ使い慣れない第2言語で?それから、言語を習いたい人は言語を習いたいのであって自分とは何ぞやとか、違う自分になりたいのだと思っているとは考えにくいのではありますまいか?

 (2008)ってpatmiイマージョンの亜流に思えたんですが…結局のところ、そっち系(この~系って使いやすいから好き)って、ブランコの揺れの片方で止まった位置なのに、もう片方の揺れの止まった位置を批判するというか、「閉塞」というのはいかがなものかと(命名:煮え切らない系表現)。

 自分たちが主張すればするほど、つまり自分サイドの揺れを大きくすればするほど、もう片方の止まる位置も高くなる(必要となる)ことも考えた方がよさそうです(省略:煮えきら表現)。