感じる・思う・考える

 タイトルの3つのエネルギは別物と考えられてきました。

で、数十年、否、数百年前に同じ所からの発信であるという結論になりました。

どれもこれも「脳」というコンピュータ部位にあたるということです。

 では、上に3つは確率の違いなのでしょうか。

それは誰もがNONと言うでしょう。

ではタイトルの3つの区別は無意味なのかと言うことにiなります(アイナリマス(コレ、結構気に入ってる))。

 いやいや、違います。で、認知系が台頭してきました。彼らの言うに、それは経験と計算の違いなのだと。チョムスキーは反対せざるをえないのか、というテーゼはおもしろくありますが、それはそばによけて。

 認知系の総体は一系統ではなく、一筋縄ではいかないルートからの漂流者のあるカテゴリの一致という曖昧な幅があるわけです(当然、チョム傘下の者も)。

簡単に感覚系と思考の区別だとすればいいのですが、感覚だけでは感じるのは、いささか認知によっていますし、思考という「思」と「考」が一緒になった語彙の扱いにもほとほと困るわけにiなります。

 でもって、「感」と「思」を区別すれば自ずと、「感」「思」「考」の3つが峻別され、ことを得るということになりますが、問屋は当たり前に卸しません。

 もうヒトツの見かたは3つを厳格に区切ることはできるが、それを扱う方(人さま)が峻別できてないという(どうも、不純物多しという枠)、人間未成熟論です。そこで疑問がウジムシです。

 その3つは人間が区別したのだから、その区別もできて当たるべし、とね。ぽちっとな。

 ボヤッキーも出てきても結論が出ず、しからば、これにて退散。ドロン