アンニュンハシムニカ

 お墓参りはいいものである。心が安寧になるというか…心のコアの部分が暖かい両手で包み込まれるような…コトバではうまく言い表せないがそんな感じである。

 お盆も終わりに近づき故郷での思い出を土産にUターンラッシュが始まる。そしてまた日常生活の方言へと戻っていく。方言の切り替えは環境の切り替えにほかならない。違う自分が待っている。

 というマクラで、本題に入る。
「まいどはや」というコトバを聞いたことがあるだろうか。「こんにちは」ていどの意味らしい。ものの本によると「毎度です、ハイ」の「ハイ」が「はや」になまったと書いてあるが、どうも眉唾である。「ハイ」の意味がわからない。「毎度お早いです(ね)」が「まいどはや(早)」に縮まったと考えたほうが音韻的に考えても妥当だろう。

 言い忘れたがこの「まいどはや」は富山県の有名な方言であるらしい。いまでも県内いたるところで使われているらしい。ちなみに私は富山県人である。生まれてこのかた一度もこの挨拶表現を聞いたことがない。他県のひとは私が富山県人だと聞くと必ず「富山の方言でマイドハヤってあるでしょ。あれいいね」という。「そうですか」としか言えない。

 また「「まいどはや」というコトバには富山の良さがにじみ出ている」というひともいるようだ。「そうですか」としか言えない。

 無理に方言で環境(地方都市)のイメージをつくろうとする傾向は根強い。地元のTV番組で使われる方言はほとんどのキャスターが県外のひとだということも関係があるが地に足が着いていない。番組の個性の無さを方言で補っているとしかみえない。「たくさんの人に富山を知っていただくために方言を使ってアピールしているんだ」というひともいるだろう。「そうですか」としか言えない。

 ようするに富山をアピールしてきた結果のヒズミが「まいどはや」である。一地域で使用されているキャッチーなコトバを全地域のコトバであると拡大解釈させ、形骸化させたのは「富山を知っていただく」という精神である。なんと高尚な……

 自分一個人もアピールできないひとがその大枠の環境をアピールできるのだろうか。媒体に頼ったアピールなどより目の前の小さなふれあいが旅人の心をどれだけ安寧にするだろうか。  まずはお墓参りをして心を安寧にしてみてはいかが。