言語を研究するには脳に関しても勉強しなければならない。ヒトは思いや考えを口にするがそれは全部脳からの指令によってなされる。当然話す運動機能も脳の指令だ。
脳科学が発達すれば自ずと言語学も進歩する。ところが、脳のことでわかっていることは宇宙のことと同じくらいわかっていない。ほとんどの知見(研究により判明したこと)が間接的なものにすぎない。
当然といえば当然かもしれない。人の脳を切り裂いて調べるわけにはいかないからである、
脳が今のヒトを作ったといっても過言ではない。その脳を知ることは神を知るのと同じことである。
言語哲学者のウィトゲンシュタインは言語というものを研究することなどできない、それは決められた言語ゲームなのだと言っている。仏の手のひらで戯れる孫悟空である。要するに宇宙の外はわからないという意味である。言語はそこにあるからこそ世界があるとまで述べている。
文法などがわかっているのだから言語というものがわかっているのと同じではないか。否である。文法は言語が使われた形跡であり、言語そのものではない。葉っぱ1枚をどう詳しく調べても「葉っぱとは?」という答えは出ない。じゃ、葉っぱの数を増やせばどうか。かわりがない。葉っぱを調べるには木についてわかっていなければならない。それが前提である。
その前提は葉っぱ1枚調べるよりやっかいであることは想像がつくだろう。つまり葉っぱ1枚でさえわかったとはいえない。葉っぱは言語で木が脳だとすると「言語がわかる」という意味がどんなことを意味するかわかるだろう。
したがって言語がわかるかといわれるとNO(脳)といわなければならない。