語用論と意味論Ⅱ

それでは…
  
 1、部長の田中です
通常、例文1は「部長=田中」である。つまり意味が1体1で対応し、意味論で解釈される。しかし、文脈を与えると、

 <田中さんが2人、課長が好きな田中さんと部長が好きな田中さん>
 2、A:どっちが女性?
   B:部長の田中さん
と発話できる。ちょっと不自然な会話かもしれないが、文脈が与えられると、つまり語用論的文脈があると言語形式の意味がひとつではなくなる。

 となると、語用論の方が優勢か?しかしながら語用論の意味は意味論で決定されるのではないか?…というふうに「卵が先か、ニワトリが先か」の議論となる。

 簡単におさめる方法は語用論を尺度の先端に置き、意味論を反対の先端に置いて、意味をその尺度の中で決定されるとするものである。それでも、何をもってその意味を位置付けるかが問題となる。 

 文脈のない発話はありえない。精神薄弱者の発話においてもその人の中で文脈は存在する。周りが理解できないだけである。そうすると意味論がそもそもありえないのか?

 辞書の意味は意味論の世界を描いている。語用論を基にした辞書は原理的にありえない。森羅万象を表さなければならないからである。仮に語用論の辞書があったとしてもそれは意味論の確率論を基にしたものである。

 でも、人の認知能力には限界があるので森羅万象を表せるだけの能力はない。よって語用論の能力にも限界がある。言語は認知に密接に関わっているが認知そのものではない。

 認知が上位で言語が下位となるのは共通した認識である。上位によっての操作が下位に影響を与えるのも理解出来る。言語内の意味論か語用論かはそれだけでは決められないことにもなる。

 よって意味論が上か、語用論が包摂しているかという議論は不毛なのである。