教育をあがめる人たち

 前々から何か怪しい集団だなあと思っていたのですが、ヤハリそうか!!という感じです。

 「教育委員会」ってそれこそ教育されなければならない団体だったのですね。理念のない、または理念しかない人たちが現状立場を利用して予算を降ろさせるシステムを誰彼なく、全国で行えることができたというのが驚きです。

 やはり事故米(Oh,ビビット)をアメリカ(米国)からもらいつづけたツケなのでしょうか。なんか、相撲協会にもつながるところがありますね。

 で、本題です。 

 日本語教育でも当然、いろいろ教育に関しては議論されてるわけです。教授法、学習者の自己学習、教師の自己向上志向、第二言語習得(取得?)理論、ウィゴツキー、周辺的正統ナントカ、フレイレ、はたまた脳科学などなど(あのーー、実はシャドーイングためしています。イヤ、学生の日本語は軽やかになっている…と思うでもないというようなことが、現在、いえないという感じでもないことがいえるぐらいの成果です、ハイ)

 ・・…で、数十年、否、数百年単位で見ても突出した理念で行われた教育が、それまた突出しているという例が全くないのではないのでしょうか(共産党街頭演説的、素直に「ナイ」と言えよと言いたくなる表現No4)。

 閑話休題、で、でっすね。教育(多分ですが「教」「育」の順番が逆、育ったものに、ABCを教えることが本来)をある機関にゆだねるということがいかにバカげたことかをここで言いたいのであります。彼らの仕事は必要のない検査と自己満足と年2回の宴会、そして楽しみの視察(アッチ系??)で1年が過ぎます。

 でも、その内実を知っていても誰も文句は言えません。以前の校長(それこそ今や「「好調」です)なわけですから。そしていつのまにか自分もそのポストヘ  へ  へ…・・・

 ・…これはネ、、

 で、で、私はコンナ人間を許せません→→・…と、数十年、…気がつくと嫌悪したあのポストに自分がいるではありませんか。ふつうはここで2度目の嫌悪があってもいいのですが、そのポストは大麻ポストと言われるようにあのころのパッションが過去の汚名にように忘れたいもの最優先となるのでありました。

 情熱のある教師の映画はあるけど、上で言ってきたことが如実に語ったのはないなあ。やっぱ、宗教は破綻しないのですね。どんなに災いがあったとしても。ナマステー