日本語の教師の3Kとは「勘」「経験」「記憶」だそうです。いわゆる職人わざですね。
で、最近、それにたよるのはよくないそうなんです。それを伝えられるスベがないからだそうです。
それで、だれでも教えられる教科書、指示通りにやればいい聴解テキスト、すべてマニュアル付き、つまり考えずともやれる教育だそうです。職人からマシーンへ。
これだけ日本語教師の数が増えてきたから、統率を取るのにもいいのでしょう。
でも、よく考えると、今の社会主義みたいだなあと思うんです。皆平等って言ってるけど、それは特権階級をのぞいた平民をブルドーザでならしたというか…
みんな、個性的なことやってたら、本売れませんからねえ。私たちの言うとおりにやってりゃいいんだってか。自分たちの職業をおびやかすなって。「日本語教育科」ってけっこう学生を呼べるらしいではございませんか。
それよか、個性的な教え方がかつてあったように、個性的な派閥があってもいいと思うんだけどなあ。それじゃあ、日本語教育は発展しない!ひとつのしろ、って言う声が聞こえてきますね。なーーにが。どうせ英語教育の受け売りやってるだけじゃないのかい。違いますでございますか?
でも、『英語教育』を読むと、それぞれ個性的な教師が科学的な根拠を元に個性的な授業をやっていてさすが層が厚い(そして熱い)とカンタンしてしまいます。「オーディオリンガル」の重要性があること力説している方がいて、カッコイかったんです(この終わり方、日本語学習者がよくやりますね)。