国語と日本語と英語と

最近、まず英語ができなければならないという風潮が広がっている。コンプレックスの裏返しか、盲目的に英語信仰が語られる。しかし、当の国語がちゃんとできないと英語なんかできてもしょうがないという意見もわずかにある。

 当にその通りである。思考と母語は密接に繋がっている。歩くこと無しには走れない。

 では国語の授業を増やせばいいのかというと現行の国語のままでは増やす意味がない。

 今まで国語の授業といえば面白くもない小説などの一部を区分けし、それをまた区分けし、指示詞の先行詞を求められたり、内容もないものの要約をさせられたりしている。

 要するに、面白くもない小説(中には非常に面白い読み物もあったが)をもっと面白くなくさせるにはどうしたらいいのかという実に奇想天外(皮肉です)な方法論を学ばされている。

 一番最悪なのが感想文である。そして文章の書き方を全く教えられていない学生は当然のようにあらすじを書くことになる。感想文とはあらすじを書くことだと思っている学生さえいる。

 作文の方法、書く方法を教えない国語などありえるだろうか。教師は、原稿用紙の書き方はうるさい言うが方法については自身も知らないのである。自身も習ったことがないからである。

 今この歳になっても書く方法がわからないので文献を読んだり論文を書いたりするのは非常に曖昧な経験値でやり過ごしている。

 日本語は論理性がないと言われることがあるが、日本語に論理性がないのではなく書くほうに問題があるのである。小学生からしっかりしたカリキュラムの下に書く練習をすれば英語なんてものは要らない!何歳からでも学べるから心配することはない。

 異文化理解はしっかりした論理からバネのある論理に移行する力をつけることである。英語を学ぶことではない。